郵便受けの蓋を開けた瞬間、嫌な胸騒ぎがした。薄い封筒が一通、妙に整った字で私の名が書かれている。差出人は――夫。しかも、消印は観光地として有名な南の町だった。
(旅行中のはずよね。しかも“出張”だと言っていたはず……)
私は玄関先で封を切った。紙の擦れる音が、やけに大きく響く。中から落ちてきたのは、写真と書類。
写真には、笑い合う夫と若い女。海を背景に、肩を寄せ合う2ショット。どちらも、こちらを嘲るような顔をしていた。
その下に、離婚届。
「……なんなのよ、これ」
声が震える。怒りなのか、冷えた悲しみなのか、自分でも判別できない。ただ、胃の奥が静かに沈んでいく感覚だけがあった。夫はわざわざ、愛人との証拠を“郵便”で送りつけてきたのだ。
私はソファに座り、しばらく動けなかった。結婚して七年。子どもはいない。共働きで、家計も家事も折半。大きな喧嘩はなかった――少なくとも私は、そう思っていた。
だが写真の笑顔は、私の知らない夫の顔だった。
次の瞬間、胸の奥に熱が灯った。涙ではない。決意の熱だ。
「……出せばいいのね」
離婚届を広げ、必要事項を迷いなく書く。震えは止まっていた。むしろ頭が冴え、指先が軽い。夫の狙いが透けて見えたからだ。私が取り乱して、すがりついて、話し合いを求めて――その間に彼は愛人との新生活を整える。そういう筋書きだったのだろう。
なら、こちらはその一手先を行く。
私はバッグを掴み、家を出た。
役所までは徒歩十分。信号待ちの二秒が、異様に長く感じた。けれど、私は立ち止まらなかった。窓口で番号札を取り、淡々と提出する。
「こちら、離婚届のご提出でよろしいですか」
「はい」
職員は形式的に確認し、受理の判を押した。たったそれだけで、私の“妻”という肩書きは終わった。
――終わらせるのは、こんなにも簡単だった。
帰宅後、私はすぐに行動を開始した。まず通帳と印鑑、保険証券、重要書類をまとめる。家電や家具の購入記録、家賃の支払い履歴、共有口座の入出金――後で揉める要素は、今ここで潰す。共同名義のものはなく、賃貸契約は私名義。夫は「家賃は折半だ」と言いながら、実際は数か月分を滞納していた。私は静かに証拠を揃えた。
翌日、管理会社へ連絡し、契約者である私が退去する旨を伝える。
引っ越し業者の見積もりを取り、会社には有給申請。住民票の移動も、役所で同時に手続きを済ませた。
そして三日後。私は新居の鍵を受け取った。駅から少し離れた静かな場所。誰にも言わない。夫にも、共通の知人にも。必要なのは、再出発のための“余白”だった。
引っ越し当日、私は最後に家を見回した。二人で選んだ食器、揃えたタオル、休日に読んだ本。思い出がゼロではない。それでも、封筒に入っていた写真の笑顔が、すべてを上書きしていく。
ドアを閉めた瞬間、不思議と息がしやすくなった。
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次のページ引用元:https://www.youtube.com/watch?v=LNT8J8S8iwU,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]