工場の門をくぐると、鉄の匂いと油の気配が肺の奥まで入り込んだ。夕方の薄い光が、作業服の背中を鈍く照らしている。私は胸ポケットのスマートフォンを握りしめ、妹から届いた短いメッセージを何度も読み返していた。
――「お兄ちゃん、初任給出たよ。今日は私がご馳走する。駅前の高級寿司、行こう」
車椅子の妹が、初給与で高級寿司。そんなこと、できるはずがないと、正直思った。だが、彼女は本気だった。リハビリの合間に資格を取り、ようやく掴んだ工場の仕事。毎朝、車椅子のタイヤを拭き、制服の皺を伸ばし、緊張で青白い顔をして出勤していった。その背中を見てきたからこそ、私は「ご馳走」の意味を知っている。これは贅沢ではない。彼女が自分の人生を取り戻すための宣言だ。
だから私は、約束より少し早く工場の近くに来ていた。妹がどんな場所で働いているのか、一度この目で確かめたかった。余計な心配だと分かっていても、兄という役目は、そう簡単に外せない。
門の脇で待っていると、遠くから車椅子の軽い音が聞こえた。妹の手元の動きは、まだぎこちない。それでも彼女は笑っていた。いつもより少し、誇らしげに。
「お兄ちゃん、待った? ね、今日ね……」
言いかけた妹の声が、途中で途切れた。彼女の視線が、工場の出入口に向いたのが分かった。そこから現れたのは、腕を組み、顎を上げた男だった。作業帽の下から覗く目つきが、妙に冷たい。
「おい、まだいたのか。……ああ、兄貴か」
男は妹の車椅子を見下ろし、嘲るように笑った。
「正直言ってさ、お宅の妹さん役立たずでねw 現場は戦場なんだよ。無能は帰れ。周りが迷惑する」
言葉が、耳を通り抜けず、頭の中で鈍い音を立てた。妹は何も言わない。唇を噛み、拳を握り、視線を落とした。車椅子の膝の上に置かれた給与明細が、震えている。
「……すみません」
妹の声は小さく、擦れた。
その涙を見た瞬間、私の中で何かが切れた。
「お前、今なんて言った」
私は男の前に出た。声は低く、しかし自分でも驚くほど落ち着いていた。怒りは叫ぶより、静かに燃えるほうが怖い。男は鼻で笑い、肩をすくめる。
「事実だろ。できないなら――」
「黙れ」
私はスマートフォンを取り出し、ある番号にかけた。男が怪訝そうに眉を寄せる。呼び出し音が二回鳴ったところで、相手が出た。
「こちら、○○工業、工場長の浜崎です」
私は名乗らず、要点だけ告げた。
「浜崎工場長ですね。私は本日、現場の労務状況と人権配慮の監査に来ています。御社の協力会社、ユニバーサル支援機構の監査員、相沢と申します」
男の顔色が変わった。妹が働くこの工場は、障がい者雇用のモデル案件として補助金と委託契約が絡んでいる。監査の一言は、現場の空気を一変させる。私は続けた。
「今、あなたの現場責任者を名乗る男性が、車椅子の社員に対し『役立たず』『無能は帰れ』と発言しました。
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