大学病院の正面玄関をくぐった瞬間、消毒薬の匂いが胸の奥を刺した。白い天井、規則正しい足音、電子掲示板の淡い光――ここは、かつて私が「医師になる」と誓い、そして医学部を中退して去った場所と同じ空気を持っていた。
受付前で診察券を握り直したとき、背後から聞き覚えのある笑い声がした。振り向けば、白衣ではなく看護師の制服を着た彼女がいた。元恋人、早川麻里。学生時代、私が解剖学で眠り込み、実習で叱られ、焦りと自己嫌悪に沈むたび、寄り添ってくれたはずの人だ。だが別れ際、彼女は「中退なんて逃げだよ」と冷たく言い放った。
「……久しぶり」
私が挨拶すると、麻里は目を細め、値踏みするように私の全身を見た。革靴は磨いた。
「生きてたんだ。医学部を中退した“高卒の貧乏人”さん。元気にしてる? w」
周囲の視線が一瞬だけ集まり、すぐに流れる。病院という場所は、人の尊厳が静かに削られる場でもある。私は何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。ここで争えば、患者の迷惑になる。何より、彼女の言葉が痛いほど図星だったからだ。私は中退した。夢を途中で折った。社会に出て、現実の厳しさを知った。誰より自分が、それを恥じてきた。
麻里は勝ち誇ったように続ける。
「ねえ、今なにしてるの? まさかまだ医者になりたいとか言わないよね。ここ、大学病院だよ? 努力した人だけが立てる場所。あなたみたいな――」
そのとき、背後から落ち着いた声が割って入った。
「教授、診察の時間ですよ。移動の準備は整っています」
振り返ると、清潔感のある白衣をまとった女医が立っていた。年齢は三十代前半だろうか。髪はきっちりまとめられ、胸元のネームプレートが光る。周囲の医師や研修医が、彼女の視線の先――つまり私に、自然と道を空けた。
「……え?」
麻里の声が裏返る。私自身も同じ言葉しか出なかった。教授? この私が?
女医は表情を崩さず、手にしたタブレットを確認しながら淡々と告げる。
「本日の外来は予定どおりです。新しい症例カンファレンスの資料も揃いました。教授、こちらへ」
その呼称は、冗談ではなかった。周囲の空気が“確定”の形を取っていく。人は、肩書を得た瞬間に扱いが変わる。今、私の前でそれが起きていた。
麻里が一歩後ずさる。先ほどまでの嘲りが、喉の奥で凍りついているのが分かった。
「……ちょ、ちょっと待って。教授って、どういう……」
私は麻里を見た。勝ち負けを告げたいわけではない。ただ、過去の自分に決着をつける必要があった。
「中退したのは事実だ。だから君が見下したくなるのも、分からなくはない」
麻里の眉が動く。私は続ける。
「でも、そのあとも終わりじゃなかった。臨床工学の現場で働きながら、研究を続けた。夜は論文、休日は統計。遠回りして、別のルートで医学の世界に戻った。医師免許とは別の形で、ここに立つ方法がある」
女医が小さく頷く。彼女は私の共同研究者であり、今日の外来チームの主治医でもある。
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